Takachiho Maru


写真 
picture of the ship



(map by Vincent Tzeng)

 

March 1943, Vincent's father had done with the business in Manchuria and was coming back to Taiwan.  He traveled to Kobe and took the passenger liner TAKACHIHO Maru in Kobe, Japan. This 10-yr old luxurious liner with 1089 passengers and crews on board was torpedoed by a submarine and sunk off the coast near Keelung, Taiwan.  The incident took 844 lives, including Vincent's farther who was 38  and at the peak of his career. 48 days after the tragedy, Vincent was born in Taipei. 



画 :  大久保一郎       提供:商船三井

News stories and a note by the survivor Tanaka are posted in Japanese language. 
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参考 (reference):
和辻春樹著/
野間恒編/船/NTT出版/1996


田中秀文/平和のいしぶみ 
a survivor's note


高千穂丸慰霊碑
a memorial monument

新聞記事
news about the incident


小津三百三十年史 編纂委会/小津330年のあゆみ/
昭和58年11月
無梁矢構造の豪華客船
昭和9年1月に完成した高千穂丸には「無梁矢構造を試みただけでなく,ファッションプレート船首,クルーザー・スターン,在来のタービン機関船よりも太くて短い煙突,バランスの取れた二本マストと煙突の配置」などさまざまな新機軸がとりいれられていました.設計者である和辻春樹博士のエッセイ「舷弧と梁矢」によると,船首と船尾を高く設計(舷弧)したり,甲板の中央を高く左右を低くする構造(梁矢)は,翻弄されても船首を海面に突っ込まず,弧によって強度をもたせたり甲板に被った海水を流すための工夫ではあるのですが,それも帆船時代の名残に過ぎないといいます.「船は傾きながら走るものと心得ていた昔とは異なって、今では梁矢は何の役にもたたない。」
和辻博士は建築家村野藤吾と協力して,梁矢や舷弧による不要な三次曲面を除いてすっきりした空間に洗練されたインテリアの客室内装を施します.豪華客船高千穂丸は台湾航路に就航して海の女王として君臨しました.そして就航10年に満たない昭和18年3月19日,台湾到着間近の海で雷撃を受け撃沈されます.
海面に没しようとしている高千穂丸の悲愴な最期が,大阪商船の嘱託画家だった大久保一郎画伯によって描き残されています.それは乗員1089名のうち844名の命が消えていく現場です.
救助なき844名の死
救命ボートで漂流していて台湾漁船に救いだされた田中秀文氏の回想によると船客は安全を信じており,避難訓練にも人が集まらない状況だったようです.沈没後も穏やかな海上に浮かぶ人々は声をかけあい,捜索救助を待っていました.しかし風が起り波が荒れはじめると一人二人と消えていくのです.
生存者のなかにもう一人,江戸初期から続く和紙問屋「小津商店」の橋爪氏がおられました.和紙も当時は軍需産業の一翼を担っていたのです.火薬や弾薬の包装紙,脱脂綿や硝子の代用品,紙糸製の防虫網は軍から前渡し金を支給されて納品したといいます.和紙を使用した兵器として最も有名なのは風船爆弾でしょう.幕末に佐久間象山が風船爆弾で米国攻撃をと戯れた夢想を,驚いたことに90年後の帝国陸軍は実現してしまいます.小津商店は昭和四年から風船爆弾用の和紙の研究に着手していました.二層の和紙にコンニャク糊を塗り重ねた風船は水素ガスを漏らすこともなく,高度1万m時速200kmのジェット気流に乗って米大陸に時限爆弾と焼夷弾を運ぶのです.橋爪氏は台湾に新会社を設立する準備のために高千穂丸に乗船しており,50余時間の漂流ののち海軍艦艇に救助されますが,小津商店はこの事件で日本と台湾間の航海がもはや安全ではないことを知り進出計画を断念します.
田中秀文氏は平成13年11月12日,津市の中之霊園に高千穂丸の慰霊碑を建立,犠牲者の慰霊に生涯を捧げておられます.(この項おわり)

昭和18年3月14日、「高千穂丸」乗客および雑貨を積んで神戸を出港、門司経由で基隆へ向かった。同19日、敵潜水艦の雷撃が命中し、大爆発とともに積荷が空中高く飛散し、船体 はわずか4分で沈没した。