高千穂丸 遭難記事 田中秀文/ 平和のいしぶみ/ 高千穂丸遭難記/ 平成14年 著者のご了解を戴いて転載しております |
【逓信省発表】内台航路に就航中の客船高千穂丸は三月十九日台湾沖において敵潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没せり、遭難と同時に基隆より急遽救助艦船派遣せられしが、魚雷命中と共に本船は火災を発し且つ波浪高く避難救助困難にして多数の犠牲者を出せり、現在までに判明せる生存者は二百四十五名なり 老幼婦女子は船旅を止めよ 海務院の要望 高千穂丸の遭難に対して二十四日海務院では次の様に要望してゐる 高千穂丸遭難により多数の犠牲者を出したことは当院としてもまことに遺憾の極みで遺族の方にあつく弔意を表するが、大東亜戦下ひとたび外海に出ればすべて戦場、従つて敵潜水艦の出没もまた皆無とは言へない、ことに最近は海上輸送が輻湊している折からでもあり不要不急の航海や殊に老幼婦女子の海上旅行は努めて見合わせて戴きたい | |
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敢然乗客を救助 二将校の壮烈な最期 高千穂丸の最期にあたつて、壮烈鬼神を哭かしめる陸軍二将校の救助美談が秘められ感激の的となつてゐる、同船に乗り合せてゐた奥実盛大佐ならびに吉利康夫中佐は、遭難と同時に一身の危険をも顧みず、猛火の中で敢然乗客の救助作業に挺身し、つひに本船と運命を共にしたものと見られてゐる ●昭和18年3月25日 新聞記事 私は最近当時の報道の記事を見て余りにも事実と異なる事に唖然とさせられます。遭難と同時に救助船を出したとか波浪高く救助が出来なかったとか、火災が起きたとか五分で沈没したとか全く「間違い」です。 十九日は「風も波もない晴天」救助船が来ていたらこの様な惨事には至らなかったのです。 十七日に門司を出港した、十九日にはキールンに着く事はわかっていたはずです。それなのに何改、救助捜索がなされなかったのですか、「あの混乱の中、乗船されていた軍人さんが民間人を助けられた事は確かでしょう」 無念の思いで八百四十四名という尊い犠牲者の為にも聞きたい事です。生存者としても、心に大きないたでとなりました。(この項おわり) |