田中秀文/
平和のいしぶみ/
高千穂丸遭難記/
平成14年

著者のご了解を戴いて転載しております




●高千穂丸遭難記−田中秀文
昭和十八年三月十六日 私は台湾警察官として採用され台湾に行く為に乗船。神戸より大阪港にて乗船、人員の放送があり民間人と乗員合わせて千二百六名と聞きました。軍人が乗っている事は知らされて居りません。三等船室のお客さんが軍人が乗っているのを見たと申されたので戦争中でありスパイも居る特別任務をもった軍人さんでしょうと話しました。
救命具は全乗員にもれなく渡され、船員さんより救命具のつけ方の説明がありました。手をもってかぶればよい、簡単なものでした。
門司にて乗る人、下船する人があって十七日に出港しました。
台湾は人ロ八百万人、内内地人(日本人)は八十万人と聞いて居りまして商用や色々の事情で行き来する人は多く一日置きに運航して居ったそうです。
高千穂丸は当時としては大型で豪幸客船として設備はすぐれていたようです。
私たちは二等船室で今想い出してもベッドは無いが広々として毛布がしきつめて、ごろ寝が出来るゆったりとした船室でありました。
十六、十七、十八日と三日は船もゆれて三月というのに船室は蒸し暑く船酔いで困りました。
私は船のゆれがありましたが一度は甲板へ出てよい空気をすいましたがとても「さむく」すぐ船室に戻りました。船室には子供や女性、老人も居られたように思いましたが、四、五十歳の方が多かったように思いました。私は二十三歳の若者でしたから皆さんは、お年寄りに見えたのです。初めて出会う人々ですから特に話しあった「記憶」はなく「朝夕のあいさつ」は誰となくしました。
十八日は海は荒れていたように感じました。避難訓線の合図がありましたが、二、三人より行かなかった様子でした。船客は内台航路は安全、戦争は勝っている、民間客船がねらわれるわけがないと話しあって居り、私も其のときは甲板へ行く元気なく寝て居りました。のんびりした船旅の気分はぬぐえない事実でした。あとで船の指示にしたがわなかった反省をしました。十八日の訓練は人が集まらなかったと聞きました。
翌三月十九日は船のゆれは全く無く我が家にいるようで私は四日ぶりにぐっすり寝る事が出来「元気」になりました。乗客の皆さんも静かだなあ、やれやれ台湾も近いと…晴れ晴れと生きかえった顔つきでありました。
リーダー格で、物知りらしい方が台湾に二十海里のところへ来ていると申されるので、遠いですねと聞きますと陸地とはかり方が違う、ずーっと近いと申され、私はそんなもんかと思いましたが、今日まで確かめもして居りません。
朝九時頃訓練の知らせがあって何人かが上がって行きました。船室で故命具をつけて行くべきを、私は救令具をもって、行ってくるわと声をかけ、ゆっくり甲板へ向いました。船客の方も船底のうっとうしさか、私につづいてこられる人を感じました。
甲板には多くの方が来ていました。風は無く空は日本晴、海は鏡のようです。ボートの「上げ下ろし」の訓練を見たり海の方を見たりして居りまして緊振感はまったくない雰囲気でありました。そんなとき「ドン」と音がしました、何事やと思いました。魚雷やと人声で船員の方がさけびまして船室の階段の方へ行かれたように思いました。高千穂丸は何事もなかったように進航して居りましたが、乗客は口々に声をかけ動揺し「右往左往」しました。「当時の事は私の心にやきつき目の前にはっきりうかんで忘れる事が出来ません」
それからまもなくでした、ドンと「とてつもない大きな音と共にゆっくり左にかたむいたまま高千穐丸は進航出来なくなり止まりました」大騒ぎとなって、海へ飛び込め、飛び込めの声…なれた気の早い人は飛び込んで行きます。訓練中の二艘のボートが海に早く降りていた事も私は知りませんでした。
すでに多くの人が海におられて私のうしろからぞくぞくと飛び込んだり船腹をすべり降りて行きます。我先にという風でもありません。私の胸中には北の大海に入ってどうなるの、大型の此の船が簡単に沈むわけが無いと思って海へ入る決断がつきませんでした。
何をぐずぐずしとる、早く海へ入れ、と船員やリーダー格の人の「どなり声」に私も不安な思いで船腹をすべるようにして海に入りました。後からは人がかたまりのようにすべりこんで来ました。巻き込まれる、船をはなれよの声があちこちに聞こえて私は懸命に泳ぎました。助けて…の声があちこちに「こだま」する、助けたれの声もする。イカダやボートに、乗せたれの声がひびきわたり、生き地獄のようです。とても筆舌にはつくせない…状態になったのです。
台湾は近いし、まさか魚雷を受けるとは夢にも思っていなかった、油断でした。
救命具は乗客皆んなにもらっているのにどうしてこんなことに…技命具無しでは死ぬ他ないのです。救命具の無い人にしがみつかれたら、ともに…もだえ死ぬ他ないのです。私は船から百米から百五十米位のところに来て居たと思います。互いに手にとどく間隔で何百人ともつかぬ人が広がって居りました。
高千穂丸を見ますと姿をそのままに現わして居りました。三等船客の人も救令具さえつけて居れば助かる、無事を折りました。
それからまもなく高千穂丸は棒立ちとなって…海に消えて行きました、なんともいえぬはかない思いにかられました。近くの人もためいきの声です。こんなときは船長さんは船と、運命を共にするものだと廻りの人は話して居りました。近くにいたリーダー格の人が風も波も潮も動かぬ、助かった。と言われ、救助無線をしているはず、始ず海軍が助けに来る。此の場所を離れたらあかんと申されて、私たちは助かるんだと明るい思いになって、いろんな事を話しあって居りました。ずーと見渡すとイカダ(木材)や貨物の荷に乗っている人が見えました。我々救命具でただよっている人々の場所より五、六十米の離れたところにボートがありました。まだまだ乗れる、弱ってる人を乗せたれとボートに言っている人。ボートに手をかけモ寄った人も振り切られているのが見えました。ボートに乗らなくても海軍さんが助けに来てくれると私たちは思って居りました。ボートも我々集団には近寄りませんが海軍の救助を待って此の場所よりははなれて居りません。
台湾は近いと言っても三月半ば、海水は冷たく、うす着では長時間は耐えられません。海軍さんはまだか、無線が出来なかったかと話したり、此の海は「人くいサメ」が多いところと話しが出て悲感な気持ちです。
もう五、六時間はすぎた、海軍は何故来ないとリーダー格の人が「おこる」ように言いました。心は皆同じでした。
そんな頃でした、風が出だし潮も動き始めました。皆んなは一緒に居りたい気持ちも、自然の力にはどうする事も出来ません。あちらに一人こちらに二人イカダや浮遊物に乗っていた人々も見えなくなり、いつのまにか人影はなく「ひとりきり」になってしまい、たえられない淋しさにおちいりました。其の時の心境はとても言葉にはあらわせません。ところが一艘のボートが遠くに見えて居りました。が私には関係の無いものです、私は不思議と「こわい」という気持ちは通り越してここで最後を遂げるのだときめておりました。万に一つ助かるわけが無いのですから、そうすると夢を見ているように、お母さんと呼びました。声のでないつぶやき、心の叫びでした。そして走馬灯のように、わんぱくな子供の項の仲良しの伊藤益男さん、優等生の黒川さん、いろんな事が一瞬の内に浮かんで来ます。妹はどうしてるかと思えば姿を現すのです。そうして小学三年のとき病死されたはずの孫太郎おじいさんが現れて来ました「しっかりせんか」元気を出せ、頑張れと言われるのです。母は何度となく目の前に現れて、しっかりしなさい、そんな気弱でどうするとしかられます。そしてあのボートヘ行きな行けというのです。皆んな死んだ、私もここでと言うと、情けない子やと叱られます。遠いボートヘ行っても乗せてくれる訳は無いと言っても、行けといわれるのです。一人淋しさにたえきれぬ、じっとしていられない神がかりのように必死に泳ぎました。(私は子供の頃より海や川で水泳が出来た)遠いボートにいつの間にか七、八十米のところへ来て居りました。月の光に海面はざらついて居りました。ボートの人が見えました。私は淋しさのあまり来たのです。それなのに「がんばれ」「助けたれ」の声が聞こえて来ました。見捨てられても仕方がないのに私をボートに引き揚げてくれました。体は冷えきり助からぬところでした。嬉しかった。有難うと言いました。ボートの廻りは救命具でいっぱいでした。私のもつながりました。ボートは自力でどこかの陸地か台湾へは行けないのでずーと休憩をしていたのでした。其の事も後日思いました。孫太郎おじいさんや母の「はげまし」で救われた「人間は最後の最後まであきらめたらいけないと教えられました」
後日、母よりの便りに私の無事を神仏にお参りし其の日とても胸騒ぎがしたそうです。神仏さんに命を戴いて有難いと思いました。
ボートは破損して小さい穴から海水が湧き出ます。バケツは一つよりありません、若者は二人でした交替でたえずかい出すのです。私は助けられた恩に報いようと懸命にかい出しました。腕や肩を痛めてもそんな事は言っておれません。ボートを助ける重要な仕事でした。
ボートの中は高年齢の方が多く若い母親と赤ん坊も居られました。「弱い人々をボートに乗せた当時の道徳、思いやりの良さ」を現在つくづく感じるのです。教育の大切さを感じるのです。ボートの先の上に若い憲兵が乗っていて海水のかい出しの交替の令令をして何もしないのです。私達は命令にしたがっておりました。「かい出し人」はへとへとです。私は我慢の限界に来ました。死ぬも生きるも一緒「憲兵さん、あんたも命令しとらんとかい出したら」ときびしく言いますと理の当然、おとなしくなりました。ボートの人々もよく言ってくれたと私に同感の雰囲気でした。
翌日になると、天候は急変して、真っ黒な雲が走って行き、雨風がはげしく小嵐のようで大波にボートは木の茉のようで、生きている心地は致しません。其の翌日は少しはおさまったが雨と霧が立ちこめて居りました。波しぶきをかぶりましたが人間が傘の役目を致しました。鳥羽商船学校出身の方がいられましたが陸地の方向も定まらず、海軍も雨霧で私たちの「捜索」も出来ないのだと暗い気持ちになって居りました。
このボートは定員六十人でした、私は人員数は知りませんが苦難に直面すると皆んな仲良く結未し助け合いお互いにはげましあいビスケット一ヶが三日間の食であり其の有難さ…此の世ではとてもみられない、味わえない温かいものでありました。
二度程大きな貨物船が近くを通りました。皆んなは一斉に助けて…と声を限りにさけびましたが通じません、前霧の為に見つけてくれず、皆んなはがっかりしました。翌日の朝には悪天候もうそのように晴れ海もおだやかになりました。
ボートの人々はビスケット一ヶで生死の戦い、昼夜睡眠も出来ぬ不安との戦い、ボートを漕ぐ人も力尽き、海水をかい出す私も足腰立たぬ状態になって居りました。そんなとき台湾島民の漁船に助けられたのです。そして担架で病院にはこばれました。
台湾警察に合格して神戸から乗船した二十五人の内四名が生き残ったのです。
助かった同僚で四国出身の方は救命具と体を「イカダ」にくくりつけて助かった、イカダにしがみついていた方々は力尽きて流されていったと悲痛な話しをされました。
救命具をつけたまま大海に漂った何百人の方々は一人淋しく人食いザメの驚怖、さまざまな思いで無念の死を遂げられた方々を思うとたえられぬ思いが致しました。
警察学校の入校は人員が揃った一ヵ月後でありました。此の上は命をかけて職務に当たり国の為にも亡くなられた高千穂丸乗客の無念をはらしたいとも思ったのです。(この項おわり)
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